だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

こだわりのお好み焼き

こだわりを捨てた先に、新たな出合いがあるものだ。

誰もがこだわりのあるものと言えば、お好み焼きである。
大阪風がいい、広島風がいいから始まり、そばを入れろ、うどんを入れろ、チーズだ、もちだ、青のりはかけるな、キャベツより白菜だ、一日寝かせろ、ソースよりポン酢だ、カープより阪神だ、いや阪急だ、などなど言い出すとキリがない。僕は、食べた後に松たか子とのラブシーンの予定があるとしても、青のりはかける派だ。当たり前だが、そんな予定はない。

こだわりというのは、人を盲目にする。自分のこだわりが全てであり、ベストであると思っている。僕は、勇気をもって、自分のお好み焼きに対するこだわりを捨てた。そう、お好み焼きの専門家でもない誰かの意見に耳を傾けてみたのだ。誰かと言うのは、奥さんである。うちの奥さんはお好み焼きなど焼いたこともない、ズブズブのお好み素人である。そんな素人の言葉で長年続けていたやり方を変えてしまうなんて、我ながら情けなさも感じている。

しかし、48歳にして、自分のやり方を変えるというのは、お腹が減っている時にココ壱番屋の前を素通りするぐらい大変なことである。もしかしたら、こだわりを捨てることでキングカズのようにもっと成長できるかもしれないという自分も間違いなくそこにいて、それを嬉しく感じている。なんとも、悩ましいお年頃、それが48歳である。

ここで、わたしのお好み焼きへのこだわりを発表したい。それは、粉と水を目分量で量るということだ

お好み焼き粉の袋の裏に書いてある、分量など一切見ない。粉と水を混ぜた、そのトロミだけがわたしの判断材料だ。そう己の目だけを頼りにして。これで今まで生きてきた。やれていた。わりと評判も良かった。はずである。


ある日のお昼ごはんの時、あろうことか、わたしは「粉と水の量はこれでいいのかな」とかな~り軽い気持ちで隣に立っていた奥さんに聞いていた。何度も言うが、奥さんはお好み素人である。聞いてはいるものの、鼻っから、意見など求めていない。そんなもんだ。ただの社交辞令だ。だから、返事はいつも通り「いいんじゃない」という予定調和な会話が続くはずだった。それは、あうんの呼吸とでもいいましょうか、料理にテンポを与えるスパイスとでもいいましょうか、それ以外の返事は誰も望んでいない。そんな奥さんから、

「袋に書いてある分量を見てみれば」

という、至極まっとうな答えが返ってきた。なぜか、その時、「そうだな、指示された分量通り作るのがうまいかどうか試してやろうじゃないか」というかなり上から目線な気持ちではあるが、指示通りやってみようと考えた。一応、奥さんの意見を受け入れる器の大きな男を演じていたはずだが、やっぱり俺の目分量のほうが上だろうけどという傲慢さがわたしのそこかしこに漂っていたはずだ。

キャベツ、天かすなどと一緒にかき混ぜ、フライパンで焼く。焼きあがったお好み焼きにソース、マヨネーズ、かつお節、青のりをかける。おーーーーかなり美味そうではないか。でも、お好み焼きはだいたい見た目美味そうにできるものだ。それが、お好み焼きマジックだ。食べてみるまでは、分からない。


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さて、食べてみよう。なんじゃ、これは、いつもとちょっと違うではないか。キャベツがしっかりアピールしておる。外はカリっと、中はトロッとして、いわゆる粉の部分とキャベツ部分のマッチが程よいのだ。そして、時々カリカリの豚肉がわたしの触感を揺さぶる。おおーーーー、これが分量通りなのか。すげーうまいじゃないか!分量通りやるではないか!今まで、何にこだわっていたのだ。初めてお好み焼きを作った時は、分量通り作っていたではないか。いつから、己の目と舌だけを信じるという傲慢な男に成り下がってしまったのだ。

二人でお好み焼きを完食し(息子はお好み焼きが嫌いなので)、わたしの小さなこだわりは消え去り、これからは粉と水の分量を量ろうねと固く誓ったのであった。

教訓、「インディアン嘘つかない、同じく、粉屋さん嘘つかない」