だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

親父の話② 借金取りと電話怖い

小学生のころ、電話が大嫌いだった。というか、恐怖だった。特に、あの音が。

 

僕が小学生の頃、つまり昭和50年代は、まだプッシュ式の電話は少なかった。どの家にもダイヤル式のいわゆる黒電話を使っていた。だから、今と違って電話のベルの音はどの家も同じであった。

 

「ちりりりりん、ちりりりりん、ちりりりりん」ってやつだ。

これじゃどんな音かは分からないけど(笑)

 

小学生の頃、あの音に心から恐怖を感じていた。音だけでなく、電話に出るという行為も嫌いだった。小学生の僕にとって嬉しくなるような電話がかかってくることはなく、世界から電話が無くなったとしても、何の問題もなかった。むしろ、無くなれば、どんなに心安らいだことだろう。

 

 

当たり前であるが、電話に恐怖を感じていたのには理由がある。生まれつきの電話恐怖症の人などいない。いや、もしかしたら、いるかもしれないが。

 

 

話は変わるが、我が家は豊かさとは程遠い生活をしていた。あの頃は、どの家もそこそこ貧乏だったので、「うちって、ほんと貧乏だ」って恥じることは少なかった。強いてあげるなら、家がかなり古かったことは恥ずかしかった。近所の友達から「PINEのうちって、ボロボロだよね」と言われることもあった。そいつの家も、決して立派なものではないのだが、完敗だった。

 

まあいい。とにかく、外からも、内からも、貧乏を感じさせるには何の問題もない家だった。

 

 

さて、ここから親父を登場させてもらう。

 

 

親父とは僕の父のことであり、父のことを書くのは今回が2回目。1回目を読んでいない方は、ぜひ親父の人とのなりを知るためにもぜひ読んでほしい。

 

pinewood13.hatenablog.com

 

 

親父はちょっと前、令和2年4月6日AM8時に死んだ。偶数がきれいに並ぶという、持っている男が死ぬにはふさわしい時間である。

 

 

話は戻り、僕の家はけっこうな貧乏な家だったにもかかわらず、僕の記憶が正しければ、親父は外車を乗り回している時期があった。確か、「ムスタング」っていうアメ車だったと思う。それは、アメ車の中でもアメ車というような、1Lで1kmくらいしか走らないのではなかろうかという代物だった。勝手なイメージだけど。

確かに、子どもながらに、「かっこいい、お父さんすごい」とは感じていた。もちろん、10歳にもなるかならない子どもにとって、その車にお金がいくら掛かっているかなど知る由もなかった。もちろん、我が家が乗れるような車ではないということも。

たぶん、日本のボロ家の象徴とも言える我が家とアメリカンドリームの頂点とも言えるその車は、ご近所さんからはあまりにも不釣り合いに見えたことだろう。

 

 

そんな、貧乏にもかかわらず親父がムスタングを乗り回していた頃のある日のこと、電話が鳴った。そんなに驚くことではない。電話は鳴るものだ。しかし、ここからがいつもと違った。親父も母親も出ようとしないのだ。そして、不安そうな顔をして僕に

「PINE(僕)、ちょっと電話でてくれ。それで、お父さんもお母さんもいないと言ってくれ」

と頼んできた。その時、まだ電話に恐怖を感じていなかった僕は、軽い気持ちで電話にでた、はずだ。

僕「はい、〇〇です」

相手「こんばんは、お父さんの友達だけど、お父さんいる?」

僕「いま、出掛けていていません」

相手「そうか、じゃあまた掛け直すわ。ありがとうね」

と相手は電話を切った。何でもない内容だった。でも、親父と母親は不安というか、今時の言葉でいうなら「やばい」というような表情をしていたと思う。

 

 

また次の日も、電話が鳴った。そして、また、でてくれと頼まれた。なんでだろうと思いながらも、まだ軽い気持ちで電話にでた、はずだ。

僕「はい、〇〇です」

相手「こんばんは、お父さんの友達だけど、お父さんいる?」

僕「いま、出掛けていていません」

とここまでは前回と同じだった。でも、ここからが前回と変わった。

相手「本当に出掛けてるの、そこにいるんじゃないの?」

と言ってきた。僕は少し動揺し、すぐそばにいた親父と母親をチラッと見た。すると、真剣な顔した母親がすごい速さで首と手をを振り「いないと言え」のサインを送ってきた。野球なら、バレている。

僕「い、いません。」

相手「そうか分かった。でも、坊ちゃんウソつくのは良くないからね。お父さんにもよーく言っておいてや」

と言って電話を切った。その声は、ドラマとかで怖い人が言葉遣いは優しいが怖い圧をこれでもかと出しているタイプのやつだった。小林稔侍が似合いそうなセリフだ。

この時点で、僕は嫌な予感を感じていたと思う。普通の知り合いからの電話ではないことは、なんとなく分かった。電話の先の声にうすら怖さを感じていた。たぶん、この電話を切った瞬間から、僕の「電話怖い」が始まったのだと思う。

親父も母親も、軽く「悪いな」とか「ごめんね」とは言ってくれるが、その時の僕にはクソの役にも立たなかった。次にまた電話が掛かってきたら、という恐怖が僕の心に住み着き始めた。ひぃぃぃ~~。

しかし、10歳にも満たない僕に何ができるだろう。僕に頼ってくる親父に「いやいや、俺関係ないから。お父さんの知り合いやろ。もう勘弁してや」なんて言える訳もない。ましてや、関西人でもない。ただ、もう2度と電話が鳴りませんようにと祈るだけだった。

 

当然のように、その願いは叶わず、次の日も電話が鳴った。もう、親父も母も電話にでる気など全くないことは分かっていた。電話にでることは僕の仕事になのだ。

 

僕「はい、〇〇です」

相手「こんばんは、お父さんの友達だけど、お父さんいる?」

僕「いま、出掛けていていません」

相手が息を飲むのが分かった、はず。そして、前回とも、前々回とも違う、いわゆるドスの効いた声が電話の奥から響き渡った。

相手「おい、舐めてんのか、こら。お前の親父がそこにいることは分かっとんぞ。あんまり、舐めてると、しばくぞ、こら~~。」

僕「・・・・・(青ざめる)」

その声は近くにいた、親父にも母にも聞こえていたことだろう。しかし、僕に助けの手が伸びることはなかった。2人の表情から、ここはグッと我慢してくれという声が聞こえてきた。

僕は、恐ろしくてもう言葉を発することができなかった。ドスの効いた罵詈雑言のシャワーを浴びるだけだけだった。

 

その後も、しばらく、この人からの電話が続いた。

そして、「お父さんいるか?」「出掛けていていません」は繰り返された。

そして、ドスの効いた声で恫喝され続けた。

その中には、「借りたもんはちゃんと返すのが筋ってもんだろ」「おまえの親父が金を返せば済むんだよ」「お前も嫌だろ、電話にでるの、だったらちゃんと親父に金返すように言っておけ。分かったか。」

そんな相手の話をなんとなく聞いているうちに、小学生ながらこの状況がどういったものかが分かった。そう、

 

親父がお金を借りたけど返せなくて逃げ回ったいるだけなのだと。

 

今ならば、その声を録音して悪質な借金取りのことを警察に相談することもできるだろう。あの頃、昭和50年代には、録音するような気の利いた物はなく。また、金を借りた奴が悪いという文化が、今よりもっと強かった。だから、親が借金取りから逃れるために利用される子どもが多かったのではないだろうか。そして、僕もその一人である。

 

 

ある時期から、電話は鳴らなくなった。正直、どれくらいその電話が続いたか覚えていない。いつのまにか、怖い人からの電話は掛かってこなくなった。そして、僕のボロ家からムスタングも消え、僕の電話への恐怖だけがそこに残った。

 

 

親父の葬式の時に弟から聞いたのだが、どうも母方の父が立て替えて借金を返してくれたようだ。母方のじいさんは末っ子である僕の母にとても甘かった。でも、じいさんがいなければどうなっていたことだろう、考えただけで恐ろしい。

 

仕事をしても長続きしない親父は稼ぐより使うほうが常に多かった思う。父方のじいさんばんさんが一緒に暮らしていたので、ゴミ収集していたじいさんと海岸で荷揚げをしていたばあさんの稼ぎで僕たちはなんとか生活できていたのだろう。

 

どうしようもない親父である。。。

 

しかし、借金取りと親父の関係はこれで終わらなかった。借金取り再び現る。今度は電話ではなく、僕たち家族は少しの間だが、本当に逃げ隠れた。

 

でも、長くなるので、それは次回に回そうと思う。