だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

【親父と僕の話③】 パンチパーマでグラサンのおじさんと帰ってこない親父

 パンチパーマの人を、最近、見かけなくなった。パンチパーマでグラサンなんてほぼ絶滅しているのではないだろうか。昔、パンチパーマでグラサンのおじさんを観察したことがあった。でも、その観察日記を書くわけではなく、やっぱり親父のことだ。でも親父はほとんど出てこないけど。

 

 

 

令和2年4月6日午前8時に父が死んだ。偶数がきれいに並んでいる。持っている男は死ぬ時間も考えているのだろうか、もう忘れることはできない。

 

 

お通夜、お葬式で弟と親父の話をしながら、あまりにもロクデモナイ話ばかりでてくるので、忘れないうちに記録に残しておこうとブログを再開した。そういう意味では親父に感謝だ。ブログネタを残してくれた。

 

 

これまで2回、親父のロクデナシぶりを書いてきた。未読の方はぜひ読んでくれたら嬉しい。ロクデナシと言っても、人によって、とらえ方は違うので、「こんなものロクデナシにはならねー」とか、「うちの親のほうがとんでもねーロクデナシだ」とか、「こりゃ、ロクデナシではなく、rockデアル」とか、「いやいや、ナナだ、いやハチだ」とご意見はあると思うが、息子からすると、やっぱロクデモナイ親父だった。

 

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前回の「借金取りと電話怖い」の話を書きながら、親父のお金のだらしなさのために起こった出来事を思い出したので書き留めておきたい。もし良ければお付き合いください。今回は、トラウマになるような怖いことではなく、少し心温まる話である。な訳ないか(笑)

 

 

確かあれは、いつかの12月だったと思う。なんとなく、今年も終わる、年が変わるという時期だったという印象が残っている。ちょっと、心も弾んで、街も浮かれていたような気がする。こう書くと、キラキラした楽しい思い出みたいだ。まあ、借金取りからの電話よりは、楽しい出来事だったのかもしれない。少しドキドキワクワクするような。

 

  

ある日突然、親父が家に帰って来なくなった。代わりに、パンチパーマでグラサンの怖そうなおじさんが家の外で我が家を見張るようになった。 パンチでグラサンのおじさんは黒塗りの車に乗り、我が家のすぐそばの空き地に車を停めて(その頃、田舎はどこでも駐車できた)、我が家の動きを見張っていた。

その姿を、僕と弟は興味津々にカーテンの隙間から覗き見していた。パンチなグラサンを観察することは、自由研究で朝顔を観察するよりずっとおもしろかった。

 

僕ら兄弟が家にいることを知ると、そのおじさんは玄関のドアではなく窓をノックした。そしていつもの通り、僕らが窓を開けると「お父さんは帰ってきたか。」と聞いてきた。本当に親父は家にいなかったので、嘘ではなく「いません」と言えば良かった。これは、前回の電話の話とは違って嘘がない。気楽なものだ。

 

 

パンチでグラサンのおじさんは現れたり、現れなかったりした。本当に存在したのだろうか?もしかしたら、夢だったのかもしれない。でも、ぼんやりした記憶の中にだが、僕たち兄弟がカーテン越しにそのおじさんを覗いている姿はあるのだ。黒塗りの車に寄りかかり、たばこを吸ってるいる姿も。

 

 

  しばらくしても、親父は相変わらず帰ってこなかった。でも、心配は全くしていなかった。なぜなら、親父から母親に電話がかかってきていることを知っていたからだ。3度ベルが鳴り切れる、そしてまた鳴る。これが、親父からの電話という合図だ。まるで、子どもの留守番だ。

漏れてくる親父と母親の電話の内容から、どうも、親父がまた借金作って、行方をくらましているみたいだった。そうか、あのおじさんは、借金取りだったのだ。アイルビーバック。

 合図を作っているのは、母親が借金取りからの電話に出ないためだ。だから、合図がない電話は僕がでる。いつものパターンだ、まったく懲りていない。でも、この時は借金取りから電話が掛かってくることはほとんどなかった。

 

 

 

 

 いよいよ、大晦日が近づいたある日のことだった、と思う。朝から、母親と僕ら兄弟は車に乗って、隣の大きな市に出掛けた。パンチでグラサンのおじさんはいない時間だった。いないと分かっていても、おじさんを避けていた母親は、緊張してイライラしていた。まあ、いつもイライラしている人ではあったが、いつもに増してということだ。母親は、周りに誰もいないことを確認し、車をだした。18歳で免許を取ったことが母親の数少ない自慢だった。その頃、女性ドライバーは珍しかった。

 

 

隣の大きな市に出掛ける理由は、親父に会うことだった。久しぶりの再会だ、と僕たち兄弟は胸踊らしたのだろうか?きっと、そんなことはなかったと思う。なんでかというと、その時の親父の記憶が全くないからだ。もしかしたら、僕は会っていないかもしれないと思うくらい。そうか、会ってないのかも、これは新たな発見。ブログに書いてみるものだ。

 

 

親父と母親が話している間、僕たち兄弟は車の中で待たされた。その間、暇だろうからと本を買ってもらった。僕は「ファーブル昆虫記」の漫画版みたいのを買ってもらった。親父の記憶はないが、「ファーブル昆虫記」のことはとても良く覚えている。とても嬉しかったからだ。その時、フンコロガシのことも知った。糞を転がして運ぶからフンコロガシって言うことを知り、弟と盛り上がった。しばらくの間「ファーブル昆虫記」は僕の宝物になって、穴があくほど読んだ。

 

 

親父との話が終わったのか、母親が帰ってきた。そのまま、家に向かうと僕たち兄弟は思っていたが、ご飯を食べて帰ることになった。なんと、ラーメンを食べることになった。外でラーメンを食べるなんて、僕ら兄弟にとっては最高なことだった。

ラーメンも食べ終え、家に帰るかと思ったら、まだ帰らなかった。なんと、今度は喫茶店に入ってパフェを食べるという話になった。ラーメンの次はパフェなんて、盆と正月が一緒に来たような、天にも昇るような気分だった。僕たち兄弟の貧しい人生を振り返った時、あんなことはあの日だけだった。なんか、振り返ると家族で無理心中する前みたいだ(笑)

 

パフェを食べ終えても、母親は一向に家に帰ろうとせず、その喫茶店で時間を潰した。僕は、またファーブル昆虫記を読んでいたと思う。

 

 

外も真っ暗になり、ようやく母親が動き出した。精算をすませ、車に乗り込んだ。ようやく、今度は家に向かうようだった。母親は、またイライラしだしたので、僕たちは黙って流れてくるラジオに耳を傾けていた。

 

 

我が家が近づいてきた。が、母親は通り過ぎた。僕たちの家は、隣の大きな街から続く幹線道路から見える位置にあった。もちろん、いつもパンチでグラサンのおじさんが車を置いている空き地も見えた。そこに目をむけると、母親が家を通り過ぎた理由が分かった。

 

そこに、黒塗りの車がいたのだ。

 

 パンチでグラサンなおじさんは頑張っていた。そこには、借金を年越してなるものかという執念を感じた。母親の時間稼ぎは無駄になった。ラーメンとパフェはパンチでグラサンおじさんを避けるための時間稼ぎだったのだ。

母親は車をちょっと遠くの空き地に停めた(この頃の田舎は至る所に駐車スペースがあった。)僕たち3人は車を降り、そこから歩いて家に向かった。月明りさえも避けるように。

 

パンチでグラサンに見つからないように、暗闇の中こっそり家に帰ることは、母親にとっては、とてもピリピリしていた状況だったと思う。でも、子どもにとっては、何かワクワクするような、トムソーヤの冒険のような、そこには日常からかけ離れた物語の中にいるような気分だった。そして、敵から協力して逃げるという家族の一体感が、この出来事を僕の中でキラキラしたものにしている。

 

そして、なんとか、見つからずに僕たちは家に入った。電気もつけることなく、すぐに2段ベッドの上と下に潜り込んだ。たぶん、冒険を終えたような気分で眠りについたのではないだろうか。とんでもなく、どうしようもない家族の話であるのだが、何か僕の中で、素敵な思い出として残っているのが、なんとも不思議である。

 

 

 

 

 

 

年が明け、しばらくして親父は帰ってきた。また、代わりに誰かが借金を建て替えたのだろう。まったくもって、ロクデモナイ親父である。