【親父と僕の話⑩】親父は塀の中、母親は男と行方不明、その子どもは…
令和2年4月6日午前8時、親父が死んだ。弟と話す親父のエピソード(ほぼ悪口)がおもしろく、それを書き留めておこうと、かなりやる気がなくなっていたブログを再開した。
不思議なもので、親父のことを書こうとすると、記憶のずっと奥に隠れていたたくさんのことがよみがえってくる。それが、僕にとって、とても心地よい時間になっている。過去を振り返りながら、文章を書くことに、このような効果もあることに驚いている。
タイトルをあえて少し刺激的にしてみた。
今回は、親父と母親がいなくなった時に、困ったことを書いてみる。誰かの役に立てばいいなと思いながら書くけど、やっぱたたないよな~。
一番困ったことは、やっぱりお金のことである。それまでも、けっして裕福ではなく行き当たりばったりの生活をしていたので、貧乏には慣れていた。
でも、いつ親父と母親が帰ってくるか分からない、もしかしたら帰ってこないかもしれない、と考えるとさらに無駄なお金を使うわけにはいかなかった。
まず、削れる出費を探す。毎月、何にいくら使ったかを調べてみた。小遣い手帳の確認だ。チロルは2個買うとこ1個に、ジュースはやめて水を飲もう。ノートはジャポニカより安いものはないか探す。
なんて、できる主婦みたいなことができる訳もなく、とにかく、ただお金を使わないことに徹した。そう使わないければ、減ることもない。これ真理。
そんな中、出費を我慢しすぎて、失敗したことがある。それは、散髪。
その頃、散髪代は3,000円くらいしたのかな。3,000円は小学生にとって、けっこう大きな出費だ。当てにできるのは、ばあちゃんの少ない収入だけと考えると、簡単に散髪に行けない。行けないならどうする。そりゃ、切らないか、自分で切るかだ。
どうする、俺?
もちろん、迷うことなく自分で切ることを選んだ。
散髪に一番適した場所は、やっぱりお風呂だ。
裸になり、ハサミを持って、いざお風呂へ。
まず、鏡を見ながら、前髪、横を整える。
もちろん、かっこ良くするなんて贅沢は言えない。
次に、後ろを切る。
もう、後ろは鏡も見ず、ザクザク切っていった。そう、ザクザクと。
排水溝の周りには、切った髪の毛がたまっていく。さらにザクザクと。
そして、合わせ鏡で確認することもなく、自分でOKをだした。
そんなリトルPINEの思い切りの良さに拍手。
そして、夜が明け、学校へ向かう。朝、起きて弟が散髪した頭について何か言っていたが、軽くスルー。
その助言、しっかり聞いとくべきだった。そう、でも、後の祭り。
あの頃って、集団登校だったと思う。6年生だったので、集団の中心になって学校に行かなければならなかったはず。そこでは、誰も僕が散髪したことに触れる人はいなかった。たぶん、野球やっていたので野球帽をかぶっていたのかも。
当たり前だが、学校に着いたら、帽子を脱がなければならない。すると、近くにいた、クラスメートが僕の頭を見て、大笑いしだした。そして、口々に、「虎刈りだ、トラガリだ」と言い放つのだった。
どうも、僕の後頭部の髪型がかなりひどい状態になっているみたいだった。
廊下を歩み進めるにつれ、僕の周りにはやんややんやの人だかりができた。ちょっとした見世物後頭部と化し、指を指されながら、「すげー」「はげてるところがある」「あんなの初めて見た」などなど、喝さいの雨あられ。
自分の後頭部が見れない僕はなす術もなく、サウンドバックのごとく、愛想笑い浮かべ言葉のパンチを打たれ続けるしかできなかった。
僕の後頭部にできた、まだらで段々な模様は、まるで風光明媚な棚田のようだった、らしい。自分では見れないからね。
それなら、人が集まっても仕方ないことである。うちの田舎は、近くに棚田などない。初めて見る棚田にクラスメートが興奮するのも無理はない。
さすがに、後頭部が棚田のままだと、次の日に学校でまた何を言われる分からないと、家に帰るとすぐに散髪屋に駆け込んだ。
散髪屋のおじさんに、ちょっと笑われながら、「お母さんに切ってもらったの?」って聞かれた僕は、ただ小さくうなずくことしかできないチキンであったとさ。
最近は、1,000円カットがあったり、あの頃より安く髪を切ることができるから、こんなことにはならなかったかもしれない。今でも、前髪やサイドは、ハサミやバリカンで切るが、後ろ髪には何人たりとも触れさせない(散髪屋さんは別ね)。
最後まで、読んでくれてありがとうございます。
最近は、ブログを書くのが趣味みたいになっている。楽しい。
いなくなって困ったことは、まだいくつかあるので、もう少し書かせてください。