だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

【仕事にて】言い方しだい、で、いい方みたい、って

言い方しだいだなってことはよくある。いわゆるコミュニケーションの力ってのは、別にどこでもいつでも必要なわけで、「さて今日は、俺のコミュニケーションの力を存分に発揮してやるぜ」ってものではない。まあ、そういう人もいるかもしれませんが。少数派ではないかしらん。

デイサービスの仕事でこんなことがあった。あるお客様(ちょっと天邪鬼なカマッテチャン系)が、

「習字がうまく書けなくなったから、したくないんだよね」

と、ボソボソと話された。デイサービスでは、「活動」と言う名で、裁縫やら、折り紙やら、切り絵やら、絵手紙やら、いろいろなアクティビティーをやる。習字もその中の活動の1つ。しかも、かなり人気。

なるほど。

自分の思い通りに書けなくなったから、やりたくないってのは分からんでもない。でも、歳をとるってのはできなくなることが増えていくってことを受け入れていくっていう修行みたいなものでもあるからして。こんなことを言っていたら、何にもしなくなってまう。あら、説教くさくなってきた。臭い臭い、やめよ。

まっ、この「したくないんだよね」ってのを言葉通り受け取っていいのかどうかってのは、もう少し掘り下げる必要があるのだよ。明智君。ここで、僕は掘ってみる。

「でも、みんな(スタッフ)が誘ってくるでしょ?」

と何気ないフリをして、聞いてみる。すると、

「やりたくないなら、やらなくていいよ。って言われるからやらないの」

と返答が。

また、なるほど。

この人は、やりたいような、やりたくないような、『誰か私をスキーに連れてってタイプ』なのだ。そんなタイプがあるかどうかは知らんが。心の叫びが聞こえてくるようだ。

「誰か私を習字に連れてって~~~」

と。こういう人には、ちょいと背中を押してあげるように声を掛けてあげると、とってもいい。たとえばこうだ、

「1枚でも、2枚でもいいから、一緒に習字やりましょうよ」

みたいに。

その日の習字の時間、そのお客様はしっかり筆を持ち、書に向かっていた。きっと、背中を押すような素敵な声掛けをする素敵なスタッフが、習字の担当だったのだろう。

 

そういう声掛け1つとっても、その人のセンスとか生き様(大げさか)がでるんだよな~。意識、無意識関係なく、その人がどういう風に人と接してきたかが赤裸々に現れる。そういう小さな声掛けの積み重ねが信頼とか信用とかにもつながっていっちゃうもんじゃないかしら。って僕は思うんですけど。

どうでしょうかね?