だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

【親父と僕の話⑧】37年後に謎が解けた話 やっぱり金八先生は正しかった

金八先生で、人という字は、ひととひとが支え合ってできているんだ。という、名シーンがある。四十九日で実家に帰った時、本当にそうだなと思わわされることがあった。僕は、知らないうちに、支えられていた。それは、親父と母親がいなかった時の話である。


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親父と母親がいない間に、僕は小学生から中学生になった。小学生までは私服で良かったが、中学からは制服を着なければならなかった。
毎日、何事もないようなフリをして生きるのに必死で制服のことなど全く思いもよらなかった。そもそも、中学になるためにどういう手続きが必要かも分からない。


あれは、もう3月になってたのかな、お客さんなんか来ない家の玄関ベルが鳴った。出てみると、学生服屋さんが、僕の身体を採寸に来た。ということだった。僕は、人生で初めて、身体にメジャーを当て、肩幅やら、足の長さを計ってもらった。

計り終わり、制服屋さんが帰った後、『良かったー、制服のことなんて頭になかった』と思った。その時は、頼んでもいないのに制服屋さんが来たことにそれほど疑問を持っていなかった。そんなものなのか、ぐらいに思っていた。もちろん、ばあちゃんは僕以上に、制服のことなど頭の片すみにもなかった。


でも、だんだん、世の中のことを知っていくと、頼みもしないのに突然採寸に来る制服屋さんなどいないことに気づいた。そりゃそうだ。いくらなんでも、事前に連絡くらいはするものだ。サンタクロースじゃあるまいし。



このことは、その後も、僕の中にずっと謎として残っていた。



四十九日の日、その謎について、初めて弟に話した。『たぶん、それはSおばちゃんが頼んでくれたんだわ』と、僕が今まで思いもしなかったことを言った。えっ、誰なのその人は?申し訳ないが、名前を聞いても誰か分からなかった。よくよく、弟に聞いてみると、

Sおばちゃんとは、母親のいとこにあたる人のようだ。両親がいない間、僕ら兄弟を心配して、何度か顔をだしてくれていたそうだ。食事にも誘ってくれたりしたそうたが、僕は頑なに断っていたらしい。と弟が言っていた。正直、僕にはその記憶が全くない。どんだけ、心の閉ざしてたんだ。まさに腐った貝だ。

Sおばちゃんは、小学校にも、僕らが置かれている状況を説明しに行ってくれたりもしてくれたようだ。弟が覚えているのに、僕がそのことを全く覚えていないなんて。弟のほうが、僕よりも心開いていたのかな。
すぐにでも駆け出して、お礼を言いに行きたくなった。時すでに遅し。亡くなられていた。親孝行したい時には親はなしと言うが、叔母孝行したい時には叔母はなしだ。


僕はそれを聞き、『これ、忘れ物だぞ』って、あの頃にキャッチできなかった、優しさのボールを今頃になって受け取った気分になった。やっぱり、人生ってプラマイゼロかもね。


金八先生!やっぱり人は支え合ってます。いや待てよ、この時は違うな。
金八先生!人はただ支えられてるだけのこともあります。さて、僕も誰かを支えに行こっと。