だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

【母】両親を介護するということ①

「お母さんが倒れた」

 

親の介護の話ってのは、できるだけ避けたい。だからか、親が倒れて初めて、これからどうすればいいのってなることが多い。僕は、どちらかと言えば、親の介護や世話については、すでに介護状態にいた父がいたので考えてないほうではなかったはずだ。たぶん。でも、まったく予期していなかったパターンでの親の介護問題に直面することになった。準備はし過ぎることはない。

 

めったに電話などしてこない人から電話が掛かってきた時ってのは何か違和感を感じる。心がざわつくく。それが、家族なら直のことである。スマホの中に弟の名前を見た瞬間、大げさではなく嫌な予感が走った。直感的に、父に何かあったか、もしくは母に何かあったか。

すでに介護状態にあった父に何かあったなら母から連絡がくるはずである。直感的に母に何かあったのだなってことを考えていた。だから、どんなことを言われても動じないように、ある程度心の準備をして電話にでた。

「どうした?」

「お母さんが倒れた。今は病院で意識がない。」

悪い予感は当たった。しかも、かなり最悪な状態で。心の準備をしていたものの、そこまでの用意はしていなかった。あまかった。

どうしていいか分からない弟はすぐにでも帰ってきて欲しいと言う。僕は、仕事を早退させてもらい、すぐに飛行機で帰ろうと電車に乗った。だが、電車に揺られながら、帰る前に1人で今後のことを考えたいと思った。弟によると、急いで帰っても状況は変わることはないとのことであった。だから、飛行機ではなく次の日の朝早くに着く夜行バスで帰ることにした。その晩は、1人で居させることができない父の面倒は弟に任せた。

バスの中で、何を考えていたのだろう。すでに過ぎてしまったことへの後悔、そして、もう巻き戻せないことにクヨクヨせず前を向けという思い、が交互に頭の中を巡っていたような気がする。気持ちが昂り、眠ることはできなかった。

鳥取に着くと、弟が迎えに来てくれた。まだ、朝早い時間だったので、実家に寄ってから母の病院に行くことにした。父は、70手前にしてかなり認知症が進んでおり、母の状況を説明しても、しっかりと理解はできない。もしくは、なんとなく分かっていながら、現実を受け入れることができないのかもしれなかった。父の的外れな言動にイラつき、きつく責めたくなったりもした。しかし、そんなことをしてもしょうがない。何も変わらない。

弟は仕事があったので、僕は1人で病院に行った。急性期病棟に着くと、看護師さんが病室に案内してくれた。そこには、ベッドに横たわり、目も口も開けたまま、ただ空の1点を見つめる母がいた。もちろん、僕が来たことなど気づいていない。その母の顔を見た瞬間、僕は「ごめん。ごめんな。」と言っていた。そして、看護婦さんがいるにもかかわらず、涙を流してしまった。

母の顔を見た瞬間に、「ごめん」という言葉を発するとは思っていなかった。母に対して申し訳なかったという気持ちが間違いなくあった。意識のない母に会い、もう元の母に戻ることはないことを悟り、その申し訳ないという気持ちが溢れだした。

病名は脳出血だった。