だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

【母】両親を介護するということ④

とにかく動き始める。思いついたことはすぐに行動に移す。行動しなければ、良い出会いも、良い情報も、良い考えも生まれない。準備はそこそこに、まず動き出すこと。今では、それが僕の生き方になっている。

 

朝目覚めると、父はもうすでにテレビを見ていた。夜中にトイレに何度も目覚め、朝も早いようだ。僕は父とコーヒーを飲んでから、朝ごはんの用意をした。ごはんを食べる前に、血糖値を測定し、インスリンを打つ。朝、昼、晩、そして寝る前。1日4度。それは父が生きていくために必要な儀式みたいなもの。飲み過ぎで、すい臓がうまく機能しなくなってからずいぶん経つ。

血糖値を測定する紙を装置の先に取り付け、指の先に針を打ち血を出す、その紙にその血を染みこませ測る。そして、必要なインスリンの量を注射する。認知症になっても自転車が乗れるように、その一連の行為はまだできると思っていた。あまかった。そばで、ずっと指示をしなければ正しくその行為を完了させることはできなかった。

自分の物も含め、洗濯物が溜まっていた。脳梗塞や出血で右麻痺になった人は、意外なところに神経質になることがある。そのせいか、夏でもないのに父はシャツを1日に何度か着替えるようになった。当然、洗濯物は増える。他にも、常に手の届くところにタオルを置き顔を拭う、その後、そのタオルの角を合わせてをきれいに畳む。という行為をテレビを見ながら何度も繰り返す。最初は奇異に映るが、だんだんと慣れていく。害はない。

洗濯物を干す気持ちの余裕などなかった。だからコインランドリーに行くことにした。ちょっと値段は張るが、洗濯乾燥までできる機械を利用する。45分くらいかかったのかな。その間に、母の病院を見舞った。当たり前だが、前日と何も変わっていない。変わったのは、僕の気持ちだけだ。もう涙はでない。母の体を触ったりしながら、歩くのは難しいだろうなとか、考えていた。仕事柄、希望的な気持ちは沸いてこない。

洗濯、母の見舞いを終え、父の待つ家に帰った。「ただいま」と玄関を開ける、返事はなくテレビの音だけ聞こえる。部屋のドアを開けると、顔面蒼白になった父がいた。目は虚ろで、声掛けに返事もできない。体は震えている。低血糖だ。

以前、低血糖になった時のことを思い出した。その時は母がいて、僕にコーラを買いに行かせた。口からあふれ出すのもかまわず、無理やりコーラを飲ました。しばらくすると父の意識が回復した。コーラってどんだけ砂糖入っているんだって恐怖したものだ。

僕はすぐにコーラを買いに行った。そして、あの時みたいにコーラを無理やり飲ませた。だんだんと、話ができるくらいまで意識が回復してきた。「体が動かんでびっくりしたわ」という言葉を話せるまでになった。ホッとする。やっぱり、1人にするとすぐに死んでしまうことが、この時にはっきり分かった(苦笑)。いろいろ抱え過ぎな父。マジ大変。

父を1人にして出掛けることはなかなか難しいなと思っていたところに、ケアマネージャから連絡があった。「なんとか、明日から入れる老健がみつかった」という、母が倒れた以後、最も嬉しい情報もたらしてくれた。何はともあれ、最優先の課題を克服することができそうだ。

 

ようやく、父の行き先が決まった時、まったく先が見えなかった暗闇の中に小さな光が差し込んできたのが見えた。そう暗闇の中では、どんな小さな光も見逃すことはない。