だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

続・足の裏

今回は、足の裏にまつわるエピソードを書こうと思う。

「なんだ、またそれ?」って思う方、うむ、おっしゃる通りです。すんません。

なんなら、もっと言うと。

足の裏が、時として、口以上に語り掛けてくることがあるってことを書こうと思う。

なんじゃらほいほいほい。

 

ここから、始まり。

 

 前にも書いたが、仕事柄、高齢者の足の裏を揉むことが多い。

ご近所さんの中では一番ではないだろうか、イエイ。

その中の一人に、右半身にまひがある、さわこさん(仮名)というおばあちゃんがいた。

さわこさんは、ご主人と一緒にデイサービスに通われており、いつもご主人が車いすを押して来所された。

脳梗塞により右半身まひになると、「失語症」という症状がでることがある。その症状は軽いものから重いものまでいろいろだ。

重くなると、ほとんど言葉を発することができなくなるし、相手の言っている言葉も理解できなくなる。

残念ながら、さわこさんは、とても重い失語症だった。

 

さわこさんが言葉を発するのは、「ぅんぅん」とか「おー」といった声というより、唸りに近い音のようなものだけである。

だから、リハビリの時は、表情やジェスチャーのような、いわゆるノンバーバル(言葉を介さないコミュニケーション)なやりとりでコミュニケーションをとる。

目と目が合うと笑ってくれるし、痛いときは痛そうにしてくれるし、嫌な時は嫌そうな顔をしてくれるし、楽しい時は笑顔になるし、こっちの動きを真似してくれるしで、困ることはほとんどない。

 

そんなさわこさんの足の裏や指を揉んでいると、こちらがとても気持ちよくなった。

不思議なことだが、本当だ。

肩や腰を揉んでいる時にはそんなに感じない、足の裏ならではのものだ。

 

どんな高齢者の方でも、足の裏を揉むと、言葉にして「汚いのにごめんなさいね」、「なんか、そんなとこまで申し訳ないわね」と恐縮される。そして、言葉にして「ありがとね」と感謝される。

 

他の人のように、さわこさんは気持ちを言葉にすることはできない。

でも、言葉にはしないが、その触れている足の裏から、なんというか、感謝の気持ちみたいなものを送っていたのではないかと、今は思っている。

 

気持ち悪いかもしれないが、時々、涙がでそうになることもあった。もちろん、泣きはしないけど。

そんなときは、だいたいが僕の心が少し弱っていた。

すると、僕の弱っている心を、陳腐な言い方かもしれないが、何か温かく包んでもらっているような感じがするのだ。足の裏を揉んでいるのは僕なんだけどさ。

 

手には「手当て」」といった力があると言われる。

きっと、足の裏にもそれに似た力があるのではないだろうか。

と、さわこさんの足の裏を揉みながらぼんやりと思っていたものだ。

 

すぐそばにいる大切な人の足の裏を揉んでみて、きっと何か伝わってくるはずだよ。

約束はできないけどさ。。。あはははは、いいかげんは好い加減。

 

ではでは~。