だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

ドアを開けた先にある幸せ

あけましておめでとうございます。

2021年が始まりました。今年から始めたことは、手帳を持ったこと。「ほぼ日手帳」が欲しいというナンパな考えがある日沸き起こったのがその理由だ、カルイ。今までは、日々気づいたことや考えたことをノートにダァ―って書いていのだけど、今後は手帳がその代わりをすることになる。

「ほぼ日」というのは、糸井重里さんが運営しているサイトであることは、あまりにも有名なので僕が説明するまでもない。「ほぼ日」って本当に面白いのだ。何が面白いかっていうと、有名無名いろいろな人のインタビュー記事が読めるのである。しかも、けっこうな確率で、心に響くメッセージをいただけるのだ。しまった、別に「ほぼ日」の宣伝がしたいわけではないが、おもしろいと思ったことを誰かに言いたくなった。

 

話は戻る。

手帳を持っても、自慢じゃないが、僕には特にスケジュール管理するようなことはない。アポを取って誰かに会うこともないし、締め切りがある仕事があるわけでもない。じゃあ、なぜ持った?さきほども言ったが、「ほぼ日手帳」が欲しかったからだ。だから、これもさきほど言ったが、今までノートに書いていたことを手帳に書いているだけ、あはあは。ちょっとだけ、丁寧な字で書くようになってはいる。

手帳って1日1ページ書く欄がある。だから、ノートと違って、毎日書かなければって意識が生まれる。ぼんやりしていると、忘れてしまいそうにもなるけどね。前置きが長くなったが、その手帳に書き始めたことを2021年ブログの始まりとします。

 

お正月の間、僕が息子にもっとも言ったことは、

「ちゃんと閉めろよ」

である。子どもって、開けたドアを閉めない。何度言っても閉めない。正月だけではない、学校から帰ってきた時もそうだ。ドアを開け、「ただいま」と部屋に入ってくるが、ドアは開けっ放しである。うちの息子だけではない、近所の子どもたちが遊びに来ても、ドアを閉めないことが非常に多い。僕はそのたびに、少々イラっとする。そして、「○○、ドアを閉めて」とドアまで引き戻させ、ドアを自分で閉めさせる。

正月の間、何度も「ドアを閉めろよ」と言ってるものだからか、ある記憶が僕の頭によみがえった。僕自身も、ドアを閉めなかったり、炬燵に人型を残したまま出たりして、よく怒られていたことを。実は、いつの時代も子どもはドアを閉めないものなのだ。この記憶がよみがえったことで、「なんで、僕はドアを閉めなかったのだろう?」ということを考えることになった。対象が息子から僕に変わった。

そして、僕は子どもがドアを閉めない理由について、ある結論に至った、役にはたたないけど(笑)それは、

「ドアを開けた先に楽しいことがある。」と信じて生きているからではないかと。子どもにとって、ドアを開けた先の楽しそうなことって、ゲームだったり、漫画読むだったり、かばんを置いて遊びにいくだったり、おやつを食べるだったり、お母さんの顔を見るだったり、いろいろあると思う。とにかく、ドアを開けた先にある楽しみや安心に早く会いたいのである。

考えてみると、この先に楽しいことがあるってドアを開けれるって、とっても幸せなことだ。暗い顔をしてドアをきちんと閉めて部屋に入ってくるより、ドアを閉めなくても勢いよく明るい顔して部屋に入ってきたほうが僕は嬉しいはずだ。

正月という持て余した時間の中で、僕は息子のドア閉めない問題を解決することができた。いや、今だにドアを閉めないから、解決したとは言えないか。でも、そこに幸せがあると思うとイラっとすることはなくなった。もしかしたら、それで十分なのかもしれない。

僕はこれからも、「ちゃんとドアを閉めて!」と子どもたちに言い続けるだろう。でも、その言葉は少し優しくなっているのかもしれない。