だんだんな気持ちで淡々と暮らす

淡々とした生活の記録

ペンダコ

ペンダコが無くなっていることに気づいた。間違いなく、そこにペンダコがあったという形跡はある。しかし、もはやペンダコと呼べるような代物ではない。あのような固さも大きさもない。なぜ、今まで忘れていたのだろう、ペンダコのことを。無くしたことを気づいてすぐに、僕は、不思議にも『寂しい』と思った。ペンダコなんて、無くて困るものではない。でも、なんとなく物足りない。
子どもの頃は、お互いのペンダコを見せ合い、『お前のすげーな』とか、『かてー』とか言って、自慢したり、褒めそやしたりしたものだった。それは、なんか頑張っている人の勲章的な存在だったのかもしれない。ペンダコを褒めることは、その人の頑張りを褒めていると同じことだったような。自慢するってことは、俺頑張ってるぞって思いを持っていたような。
そうそう話は少し変わる、ペンダコできる理由に漢字練習がある。鉛筆で漢字練習をしていると、掌と手の甲の間にある、小指の延長線上の場所(あそこはなんて呼ぶのだろう)が真っ黒になって、「なんじゃそりゃ~」と盛り上がったものである。子どもってのは、どんなことでも盛り上がる、とっても安上がりにできているなぁ。大人になった今となっては、それがなんとも羨ましいことである。酒でも飲んでなけりゃ、ペンダコで盛り上がることもないだろう。いや、飲んでても無理かな。
また、ペンダコで思い出すのは、最近亡くなられた「ドカベン」「野球狂の詩」などで有名な水島新司先生だ。漫画家である先生も、もちろん立派なペンダコを持たれていたそうだ。そして、「俺のカーブはペンダコのおかげで鋭く変化する」という名言を残されているのだ。こうなると、ただのペンダコではなく、体の進化とも呼べる存在と言える。ほんとかよ。
ちょっとだけ、最近のペンダコに事情についても調べてみた。すると、筆記用具の進化もペンダコ衰退に一役かっているようだ。ペンダコってのは、筆圧が高い時にペンが滑らないようにグッと力を入れるからできるらしいのだが。最近のボールペンは筆圧が無くてもうまく書けるようになっているらしく。そのためペンダコが出来にくいというわけだ。確かに、ジェットストリームの書き味は最高である。楽に、しかもうまく字が書ける。そうか、楽をするのが落とし穴だったのか。楽をしてはペンダコはできないんだ。やっぱり、ちょっと苦労して、頑張った感をだした者だけにペンダコという勲章が与えられるのだ。
ペンダコという名の勲章を手に入れたいという思いを持った僕は、明日からジェットストリームではなく鉛筆を握り、字を書くことにしようという、とっても挫折しそうな決意をするのであった。
さて、ペンダコって何回でてきたかしらん???